良運院

天憐山

良運院

Contents

お知らせ

    良運院概要

    名称天憐山 良運院/てんれんざん りょうんじ
    宗派浄土宗

    アクセス情報

    住所〒543-0076 大阪府大阪市天王寺区下寺町2丁目2−33
    最寄駅大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅から徒歩5分程
    大阪メトロ堺筋線「恵美須町」駅 / 阪堺電軌阪堺線「恵美須町」駅から徒歩10分程
    駐車場駐車場なし
    開門時間7:00~日没頃(5:00)

    良運院について

    慶長年間(1596~1615年)に良運上人が創建、元和年間(1615~1624年)に江戸幕府の都市計画が行われた際に、北船場西縁にある浄国寺町から現在の下寺町に移転したと伝えられています。
    昭和20年(1945年)の大阪大空襲で本堂などの建物の大半を焼失。昭和40年~50年代にかけて本堂のほかに、荼枳尼眞天(だきにてん)社・大黒天社といった諸堂も再建されました。
    道路から境内を見ると正面に4メートルほどの大きな日限(ひぎり)地蔵尊が祀られています。現在の像は大正5年(1916年)に造立されたと記されていますが、江戸時代には宝永5年(1708年)に成立したとされている「地蔵四十八カ所巡礼」の札所(ふだしょ)として永く信仰を集めてきました。

    お寺の特徴

    本尊 阿弥陀如来

    境内にある日限地蔵菩薩像と、この阿弥陀様だけが、第二次世界大戦の戦災を免れました。平安時代末期の僧侶、恵心僧都源信の作と伝えられ、身の丈は1m弱、細く優美な立ち姿です。表情はとても優しいお顔立ちをしています。修理の際に間近で見た方が「まさしく、平生から臨終まで私達を見守り導いて下さる、本当に慈悲深いお顔をされていました」という感想を述べたほどです。

    仏様の手や指の形、ジェスチャーを「印相」といい、良運院の阿弥陀様は、「来迎印(らいごういん)」という印相です。この来迎印、背後の舟形の「光背(こうはい)」、立ち姿、その全て阿弥陀様の慈悲の表れとされています。「来迎印」はどんな者でも手ずから極楽浄土へと迎えて救うという《阿弥陀様の意志》、「光背」は念仏を称える者を照らし救う《阿弥陀様の光明》、「立ち姿」は今から直ちに人々を救おうという《阿弥陀様の姿勢》をそれぞれ表しています。

    大阪新四十八願所阿弥陀巡礼・第40番札所

    江戸時代に西国三十三箇所や四国八十八箇所などの各種巡礼が盛んになりました。江戸中期に浄土宗で「法然上人二十五霊場巡拝」が始まり、今でも続けられています。これよりも歴史が古いのが、阿弥陀仏の四十八願にちなんで成立した「大坂四十八箇寺阿弥陀巡礼」です。大阪の四十八箇寺の浄土宗寺院にお参りする巡礼として、当時人気があったと言われています。

    時代が変わり長らく廃絶していましたが、平成23年の法然上人八百年遠忌を記念して、新しく「大阪新四十八願所阿弥陀巡礼」と改名し再興されました。良運院は江戸時代にも札所でしたが、今は第40番札所として巡礼先となっています。

    大阪新四十八願所阿弥陀巡礼・第40番札所のご朱印の紹介

    ※参拝者のみ受付(不在時有)。300円。
    オンラインでの販売はありません

    行事

    年間行事

    3月春秋彼岸会
    8月盂蘭盆施餓鬼会
    地蔵盆

    見どころ

    日限地蔵菩薩

    「日限地蔵菩薩」(ひぎりじぞうぼさつ)というお地蔵様です。その名の通り、日数を決めてお参りすれば、心願成就に向けて地蔵菩薩様のお導きをいただけるといわれており、良運院への参拝者は絶えません。

    台座に彫りこまれている年号によると、今の像が作られたのは大正5年(1916年)。本堂の阿弥陀様と、この大きいお地蔵様だけが先の大戦の空襲を免れました。詳しい縁起は分かっていませんが、昔から檀信徒の方や地域の方々を見守ってくださるお地蔵様として信仰されています。

    子安地蔵菩薩

    日限地蔵菩薩とは別にもう一体のお地蔵様が参道途中にある、「子安地蔵菩薩」(こやすじぞうぼさつ)です。安産、子育てのお地蔵様で、昭和40年ごろ、あるお施主の方により、子どもの無事成⻑を願って建⽴されたと伝わっています。

    副住職にお子様が生まれる時にも、大きいお地蔵様、小さいお地蔵様双方に無事の出産と成⻑をお祈りされたそうです。

    地蔵巡り

    お地蔵様が建てられた誓願には様々あり、五穀豊穣、家内安全、心願成就や、地獄に落ちる人を救う等、その働きによって様々なお地蔵様が知られています。実は、下寺町のお寺にあるお地蔵様は、全部お名前が違うようです。良運院のお地蔵様達も、その中のひとつ。お散歩かたがた、他の寺院のお地蔵様もお参りしてみてはいかがでしょうか。

    東儀一族墓所

    良運院から南東へ徒歩5分、四天王寺⻄門の近くに、「伶⼈町(れいじんちょう)」という地名があります。「伶人」とは、日本の伝統音楽である雅楽を奏する楽人(がくにん)のことを指す言葉で、その昔、この辺りには、千年以上にわたり四天王寺の法要で雅楽演奏に携わってきた「天王寺楽所」の楽人たちが多く住まっていたそうです。

    中でもよく知られた、東儀(とうぎ)氏。

    江⼾前期から、今の数代前までの東儀⽒本家歴代の墓所が良運院墓地の⼀角にあります。

    同⽒は、6世紀頃、聖徳太⼦の側近として信任を受けていた渡来系の⼀族の⻑、秦河勝(はたのかわかつ)の子孫とされ、墓碑には、秦氏の姓である「太秦宿祢(うずまさのすくね)」の文字がみられます。

    聖徳太子が四天王寺を創建された際、寺院の法要を厳かにするために雅楽を奨励され、これを受けた秦河勝は、息子の四人を四天王寺の専属楽人としました。現代にまで至る「天王寺楽所」の歴史の始まりです。

    ⻑年の風雪により、東儀⽒の墓碑は破損、⽋落が著しく、平成18年から平成20年にかけて、故・東儀俊美(とうぎとしはる)氏により、修復がなされました。俊美⽒は、元宮内庁楽部主席楽⻑であり、定年退官された後も、様々な演奏活動や後進の指導に当たる他、平成18年には、江⼾時代に途絶えていた舞楽「採桑⽼」を復元・上演されました。

    墓碑修復に際し調査される中で、この「採桑老」の譜面を書写したという俊寿氏(天明5〜元治⼀)や、「名⼈播磨」と称賛され『摂津名所圖會⼤成』にも載っている⽂等⽒(元禄⼗⼀〜安永⼋)もこの墓所に鎮まっていることが分かりました。

    修復により、連綿と続く伝統文化の一端が現代とつながり、今後も良運院に残されていくことは、大阪の財産といえるでしょう。

    リモート参拝・日限地蔵尊

    遠方にお住まいの方でもご参拝いただけるリモート参拝動画を掲載しています。
    どうぞご参拝ください。

    リモート散策・境内

    遠方にお住まいの方でも境内をリモートで散策できる動画を掲載しています。
    どうぞご覧ください。

    良運院で受付可能なご供養・法要について

    ※お申し込み、お問い合わせは寺院のEメールでご連絡ください。 3~5日以内にご返答します。

    形式
    本堂でのご回向檀家でなくてもご先祖様などへのご回向(ご供養)を受け付けています。
    地蔵尊でのご回向日限地蔵様、子安地蔵様へのご回向・祈願もご依頼可能です。
    納骨一般墓地、永代供養塔があります。

    オンライン販売、ご祈祷・ご供養のお申し込み

    良運院で販売・受付しているものの一部ですがこちらからもご購入・申込みが可能です。【準備中】

    ページ上部へ戻る