呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!

埴輪なつきでございます!
久しぶりに古墳の話をするよぉぉおお!!!!!

***

全国あちこちに古墳あって
古墳群もぽつぽつありますが
やはり世界遺産登録もされた百舌鳥古市古墳群は
日本でも屈指の古墳密集地帯ですネ

百舌鳥古墳群と古市古墳群で
古墳の築造が始まったのは古市の方が先で
なおかつ百舌鳥よりも長く、古墳造りが続きました

ひろーい目で見ると
百舌鳥と古市はとても近い
2つの古墳群は15㎞ほどしか離れておらず
その間に山があるわけでもなければ
でっかい川があるわけでもなく
平坦な平野で陸続き

ぶっちゃけ1カ所にまとまってたらよかったんちゃうの?

っていう疑問は
頭の良い学者さんたちじゃなくても思うところ

そしてその疑問に対し
頭の良い学者さんたちは、2カ所に分かれてできた理由について
色々説を立てたんですね

中でも有力な説が

「2つの王統の違いがあったと考える」説

百舌鳥古墳群にある天皇陵は
仁徳にんとくさん(16代)と、その息子たちである
履中りちゅうさん(17代)&反正はんぜいさん(18代)

古市古墳群にある天皇陵は
仁徳さんのパパである応神おうじんさん(15代)と
仁徳さんの四男である允恭いんぎょうさん(19代)
そして、允恭さんの息子の雄略ゆうりゃくさん(21代)に
さらにその息子の清寧せいねいさん(22代)
(他にもいるけど、ちょいと割愛するよ)

当時の中国で、当時の日本について書かれた
『宋書』という文献や
『古事記』『日本書紀』をあれやこれやと調べると
どうやら履中さん系と允恭さん系とで
対立がうかがえるんだとか

(あ、ごめんなさいね
わたしは学がないので
ここに書くことはわたしが研究したものではなく
エライ人たちが古い書物を読み解いて出た1つの説なので
あしからず・・・)

どういう感じで対立がうかがえるのか
あんまり小難しいことはわたしにはわかりませんが

例えば仁徳さんや履中さんが
当時の有力な豪族である葛城かつらぎ氏の娘さんを嫁にしてるのに対し
允恭さんや雄略さんは、親族ともいえる葛城氏と対立している
とかね

そんな天皇一族内の系統の対立があったから
古墳群が2つに分かれたんじゃないかといわれてるんですね

えぇでも仁徳さんのパパは古市におるやん?

と言われても
わたしには説明できません←

百舌鳥にも応神さんの御陵候補な古墳もあるし(御廟山ごびょうやま古墳)
そっちが正しいんちゃうん?

と言われても
わたしには説明できません←

ただただ古市と百舌鳥の間には
魔物がいたのかもしれませんし←←

この疑問について詳しくお知りになりたい方は
もっとちゃんとした専門書を深く読んでいただくことにして

あ、ここまで、ただの前置きです(長いわ)

日本屈指の2つの古墳群の間に
どちらにも属していない、ぽつんと古墳がいくつかあるのですよ

今回はその1つである
黒姫山くろひめやま古墳についてご紹介します~~◎

(堺市美原区黒山529)

堺市は美原区にございまして
見事に百舌鳥と古市の中間くらいに位置します

ある意味へんぴな場所にある古墳
しょぼいんじゃないの~??

なんてことはなく

全長114mというなかなかどうして立派な前方後円墳

5世紀中頃の築造と考えられていて
墳丘は2段になっていて
幅約15~20mのほりをめぐらせています

さらに、幅5mのほどの周庭帯しゅうていたいがあることが
この古墳の特徴的なところ

周庭帯というのは、古墳の外周をとりまく余地帯のこと

平野に築かれた古墳に周庭帯があるのは珍しいみたい

ともあれ
全部ひっくるめると、かなりの土地をもつ古墳ということです

さらに、現在は失われてしまったものの
周辺には小さな古墳がいくつかあったらしく
それらは黒姫山古墳の陪冢ばいちょう(付属墳)と考えられています

さあ
誰が眠っているのでしょ~~か!
なかなかにエライ人が眠っていそうですね!!

正確な所は不明ですが
この地に住んでいた豪族、丹比たじひ氏の首長であると考えられています

丹比氏は2系統存在して
1つは火明命ほあかりのみことという神さんが祖先である一族で
古墳時代に反正天皇の直轄地であった丹比部を治めていた豪族

もう1つは、第28代宣化せんか天皇を先祖とする
奈良時代に活躍した一族
こっちも丹比を治めてたのは同じですが
宣化天皇の時代は古墳時代も終わりの頃なので

バリバリ古墳時代だった前者の丹比さんの方じゃないかと思われます

丹比さんが葬られてると考えられる理由は
古墳の規模だけではなく

この古墳のもうひとつの特徴
石室から、大量の鉄製の武具や武器が出てきたこと

大昔に後円部の埋葬施設は盗掘により破壊されていたそうですが
第二次世界大戦中に航空機用の燃料あつめに松根油の採取をしていたら
前方部から竪穴式石室を発見★
調査してみれば、出るわ出るわの鉄製品

なんと24領もの鉄の甲冑が出てきて
この数は日本にある古墳からの出土量としては全国イチ!!

2位の古墳からでさえ11領しか出てきてないので
ぶっちぎりの多さということがわかりますね

甲冑以外にも、鉄製の刀や鉾やぞく(矢じり)などがザックザック

これだけのモノが出土したとあれば
そりゃあ相当な金持ち、つまり豪族で
なおかつ強力な軍事力を持っていたと考えられるわけで

それに、甲冑の素材である鉄は朝鮮半島から入ってきたと
考えられるため
外交的な力も持っていた人物・・・と考えられるんですね

となると、その条件に合うのが
丹比一族だった、というわけです!

ところで、黒姫山古墳の名前の由来はというとね

かつては「墓山」と呼ばれていて
明治時代には、黒姫山古墳は雄略天皇の娘さんであり
仁賢にんけん天皇の奥さんである春日大娘かすがのおおいらつめの陵墓
と指定されてたそうなんですが

1879年に
いや待てよ、ちょっと根拠あいまいじゃね?
となって、指定が取り消しに

その後羽曳野市にも「墓山」と名の付く古墳があるために
改称することになりましてね

確かな由来かどうか定かではないですが
黒山村にある古墳で、なおかつ皇后陵とされてたこともある
ってことから、「黒姫山」と名付けられたそうです。へーぇ

ところで

黒姫山古墳、もちろん墳丘には立ち入ることはできませんが
古墳のふもとに、石室の復元模型があるんですよ!

ネットでググっていると
右にある木の板(かな?)
パカッと開かれてる画像が出てくるんですよ

板の下にはアクリル板があるとはいえ
石室の内部が見える仕様になってるんです!

この板・・・セルフでどかしてよかったんやろか・・・!?

石室の中に何があるかは
己の目でご覧ください←

石室模型の周りには、円筒埴輪がずら~~り
コーフンしますね♡

黒姫山古墳の近くには堺市立みはら歴史博物館があって
黒姫山古墳から出土したもろもろを見学することもできます◎

世界遺産ではありませんが国の史跡に登録されている
大変見どころのある古墳でございます!

百舌鳥古市古墳群から離れているため
他の古墳もついでにめぐる・・・というには大変で
交通便があまりよろしくないのが玉にキズですが
(近鉄河内松原駅から、バスに乗り換えなきゃいけない・・・)

博物館とご一緒に訪れてみてください♪

2022.5.29 埴輪なつき

〈参考文献〉

●南河内に何がある?いいとこ発見、南河内
「黒姫山古墳|百舌鳥でも古市でもない孤高の古墳~堺市美原区~」
https://travel-minakawa.com/2019/05/11/kurohimeyama/

●トラベルjp
「甲冑の出土量は日本最多!謎を秘めた大阪府堺市の黒姫山古墳」
https://www.travel.co.jp/guide/article/22411/

●『仁徳天皇陵と巨大墳墓の謎』(監修:水谷千秋)

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