こふんこふんこふんこふんこ!!
ココココココーーーーーフン!
(おちつけ)

うっひょひょひょ
まいど 埴輪なつきだよ!
古墳チャージしてきたので本日は元気百倍です!

行ってきたのは
大阪市の高級住宅街のど真ん中にある
帝塚山(てづかやま)古墳!!!
(大阪市住吉区帝塚山西2丁目)

え、そんなところに古墳なんかあるの?
って思ったそこの方。

わたしも思いました。
帝塚山ってわりと身近な場所だったのに
全然知りませんでした(汗)

古墳=百舌鳥・古市古墳群
というイメージが先行していましたが
(まだまだ古墳ビギナーですね・・・)
百舌鳥・古市古墳群は世界遺産になったので
ひときわ有名なだけで
全国そこら中に古墳はありますからね。

古墳は天皇家のものだけではないのです。
だから、奈良や京都以外にも
南は鹿児島
北は岩手
全国合わせて約16万基もあると言われています。

じゅ、16万・・・

そんなにあるとなると、
そのうちの一つが帝塚山にあっても
何らおかしくない気がしてくるというか
もはやどこにでもあるんちゃうかと思えてくる・・・

用事があったので
粉浜駅に自転車をとめて、ちょっとだけ探索に。
(南海本線粉浜駅か15分くらい。
 最寄り駅は南海高野線の帝塚山駅)

いかにもな豪邸が建ち並び
見かける車はほぼ外車
グランドピアノの音があちこちから聞こえる住宅街。
若干の場違い感に耐えつつも坂道を少し上がると
(※帝塚山は上町台地にあるからちょっと高いんだ)

あった。


(てっぺんに突き刺さって見えるのは、
 明治31年に行われた陸軍特別大演習の際に
 明治天皇が来られたという駐蹕碑)

なんかただの小山みたい・・・

帝塚山古墳、上空から見ると綺麗な前方後円墳に
なってるんですって!
ただ、実際見られるのはこの写真が全て。
これは後円部になります。

どうにかして前方部も見られないかとウロウロしてみたけど
周囲をぐるっと住宅に囲まれていて
住宅の隙間からちらっと前方部も見れたのですが
不審者甚だしかったので、写真はあきらめました(笑)

さて、この帝塚山古墳
4世紀末~5世紀はじめに造られたとされています。
(大仙古墳で5世紀中ごろ)
全長は120メートルで
内部構造や副葬品は不明とのことながら
埴輪が並べられていたり、周濠しゅうごうの跡も確認されていたり
じゅうぶん立派な古墳でございます。

被葬者は不明ですが、『東成郡誌(※1)』によると
大伴金村おおとものかなむらor金村の息子 大伴狭手彦おおとものさてひこor
金村の妻or鷲住王わしすみのおおきみ
いずれかの墳墓だろうといわれています。

大伴氏は住吉に住んでいたとされる豪族。

鷲住王は、履中りちゅう天皇のみめ(女官)のお兄さん。
妹いわく「とても力が強くて敏しょう」とのこと。
そこで履中さんが鷲住王を呼び寄せようとしたのですが
住吉邑すみのえむらから来てくれなかったという
エピソードがあります。
・・・このときの履中さん、
筑紫(福岡県)への重課税で筑紫の神に祟られた後で
(「履中天皇陵古墳 ~ビュースポットでハイ、ハニ~!~」参照)
心身ともにボロボロだったんですね。
呼び寄せた理由は古事記には書いてないようなのですが
ヘルプを求めたのだとしたら・・・
かわいそうに(汗)

少し話がずれましたが(汗)

そんな帝塚山古墳、実はもう一人、
この人の墓なんじゃないの?
といわれている人物がおりまして

それが、浦島太郎。

あの浦島太郎。
亀を助けておじいさんになるやつ。
(説明ヘタクソか)


浦島太郎伝説の候補地はいくつかあるようですが

住吉もその一つ。
今はないけれど
住吉大社の近くには「玉手箱」という地名もあったり。

住吉さんと浦島太郎の関りを話すと
ますます長くなってしまうので
今日のところはこのへんで。

ちなみに、高級住宅街で古墳にコーフンした後
入り組んだ住宅街で見事迷子になり
同じ道を行ったり来たり
ほんとの不審者になりかけました←

帝塚山の住宅街は行き止まりが多いので
皆さまお気をつけて・・・(笑)

2021.5.17 埴輪なつき

(※1)昔の大阪府にあった「東成ひがしなり郡」について
    まとめられた書物(大正11年 発行)

参考文献:Wikipedia(履中天皇)
     一般財団法人 住吉村常盤会
     住吉大社
     現代語訳 読みやすい 古事記
     『移りゆく住よし』(著者 石田稔・石田和美)

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