菅原道真といふ人 ~怨霊のち神様~
菅原のミッチー(←言い方)について、
手持ちの知識だけでいうと、
まずひとつが受験の神様だということ。
もうひとつが、
京の都の三大怨霊の一人だということ。
(あとの二人は早良親王と平将門。
わたしが勝手に思っているだけです・・・
ええ、『陰陽師』に影響されておりますとも)
すんごい頭良かったけど、
なんか知らんけど太宰府に飛ばされて、
おのれェェってなって化けて出てきたのを
鎮めるために神さんにした、という認識。
ウィキペディアで確認したところ
ざっくりと間違ってはなかったのですが、
せっかくなので仕入れた知識を
まとめておきたいと思います~~
幼いころから文才のあった道真さんは、
大人になると漢文や中国の歴史を
教える先生のような偉い人になりました。
さらに時の天皇である宇多天皇に気に入られて、
最終的には右大臣
(朝廷の最高機関の職の一つ)の
地位までゲット。
宇多天皇はその後長男(醍醐天皇)に皇位を譲った後も、
天皇をサポートするように
政界での道真さんの存在を陰ながらプッシュ。
だけど、「道真は醍醐天皇を退けて、
自分の娘を嫁がせた宇多上皇の三男坊を
天皇にしようと企んでいるらしいぞ」
「宇多上皇を欺いてやがる」という
あらぬ噂が立ち、
道真さんは太宰府へと飛ばされてしまいます。
これを昌泰の変(しょうたいのへん)と言います。
一般的には、噂を立てたのは左大臣の藤原時平と、
宇多上皇の道真さん贔屓に不満を持っていた
貴族たちという見方なのですが、
宇多上皇と醍醐天皇の間にもあれやこれやがあったよう。
過去にちょっとイロイロあって
(詳しくは阿衡事件で検索★)
藤原氏嫌いな宇多上皇は、
醍醐天皇の次の天皇を誰にするかとなったときに、
とにかく藤原家を関わらせたくなかったのだけど、
醍醐天皇は政界で力を伸ばしている
藤原氏と仲良くしたくて・・・
ここで親子ながら対立が
起こってしまっていたわけですね。
天皇と上皇ともなると、
「オヤジのわからずや!」って
言って縁を切るだけでは済まないから、
オヤジの腹心的存在の道真さんを、
遠いところに飛ばしてしまった、と。
もちろん宇多上皇は、
その話を聞きつけた時には
都に駆け付けたのですが、
都の兵士たちに通せんぼされて面会できず・・・
なんてかわいそうなミッチー・・・!
太宰府では、京の都を思い出して
悲しむ歌を詠んでいたそうです。
よよよ。
それでや。
太宰府の空気になじめず、
左遷から2年後に死んでしまった道真さんは・・・
大怨霊になったのです。
うらめしや~~
実際に道長さんの亡霊が出た、
なんていう記述はありません。
ただ、道真さんの死後、藤原時平ほか、
道真さんを敵視していた人たちが
ぱたぱたぱたっと死んでしまったのです。
醍醐天皇の皇太子も死んじゃうし、
しまいには清涼殿(天皇のメイン住まい)に
雷が落ちて大勢の人が死んで、
それに慄いた醍醐天皇も死んでしまいます。
別にこれらすべての死が、
道真さんの死後まもなく起こったわけではないのですが、
平安時代の人々はこれを
「道真の怨霊だ」と思ったのですね。
(いやもう、やましいことがあるから
そう思ってしまうやつやん、と
現代っ子なら思ってしまうところですが←)
道真さんが祀られている神社を
“天神さん”とよく言いますが、
この“天神”というのは、
「雷や天候を司る神」で、
清涼殿落雷事件から、
道真さんと天神が結び付けられることに
なったんですって。
知らなかったー。
とはいえ、
年月とともに道真さんを取り巻く人たちの死も
落雷事件も風化していきます。
それからは、道真さんの学問に優れていたところや、
代々菅原家が学者の家系だったことから、
学問の神様として崇められるようになったのでした。
ひゃー・・・
死してなおひと悶着もふた悶着もある人生でいらっしゃいました・・・
お疲れ様です。
これからも多くの受験生たちを見守ってくださいませ・・・!
2021.2.7 姫松なつき
参考文献:Wikipedia「菅原道真」「宇多天皇」「昌泰の変」
ローム歳時記(https://micro.rohm.com/jp/rohm-saijiki/index.html)
歴人マガジン(https://rekijin.com/)
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