【大阪市内の古墳】公園の滑り台になっている古墳!?酒君塚古墳とは!
ごっっっっっ無沙汰しております、姫松生きております。
先日ちょいと所用があって、東住吉区は針中野に行ってまいりまして。
鷹合商店街を南に通り抜けてグーグルマップを見てみると、近くに古墳があるじゃありませんか。
これは行くしかない。
というわけで訪れたこちらは「酒君塚古墳」!
大阪市内の現存する古墳…と言って良いのかどうなのか、近年の発掘調査では上部を削られて低くなった古墳に江戸時代の終わりから明治の初めごろに盛土して墳丘状にしたものってことが判明しているそう。
でも、間違いなくここに古墳はあったのです。もともとの形状もわからないながら、出土した円筒埴輪から築造時期は4世紀末であり、田辺古墳群の中で最も古い古墳であることは明らかになっているんですって。
今ではもう綺麗さっぱり住宅地になっていますが、東住吉の桑津から鷹合の一帯に、かつては古墳群があったことが江戸時代の絵地図や伝承から推定されているんです。これが、田辺古墳群。
この辺りには遺跡もちらほら発掘されていて、古墳最寄りの遺跡から5世紀後半の円筒埴輪や須恵器が出土してるのだとか。
もともとの姿ではないとしても、唯一目に見える形で存在が残っている酒君塚古墳。この辺りの首長墓であり、そこに眠りしお方は、田辺古墳群の被葬者の頂点に立った倭王権とも関わり深い人物だったのではないかと考えられています。
そんなすごいお方が眠る古墳の西側斜面は現在、
滑り台になっています。おぉ…
小童が父上をお供に楽しげに古墳を滑ったり登ったり…
***
「酒君」という人物が、『日本書紀』の仁徳さんのところに登場するんですよ。
依網屯倉阿弭古がある日、不思議な鳥を捕まえて、天皇に献上。
これは何かと天皇も不思議に思っていたところに、百済王の一族である渡来人の酒君が、
「これは鷹ですよ。百済にはたくさんおります。飼い慣らせば人に従い、他の鳥を捕ってくることもできるようになりますよ」と。
そこで天皇は酒君にその鳥を任せると酒君は見事に飼い慣らし、天皇が狩猟に行った時にはたくさん雉をとらえたのでした。
そしてそれ以降、鷹を飼育する「鷹甘部」という役職を定め、鷹甘部のある所を「鷹甘邑」としたそうで、現在の鷹合という地名の由来はここにあります。
江戸時代中頃に成立した『摂津志』には、酒君塚はかつて「鷹甘部の墓」あるいは「平塚」と呼ばれていたことが記されています。
ちなみに頂上にある「酒君塚」と刻まれた石碑は、明治34年に建てられたもの。(古墳時代を思うと明治なんて最近だけど、この石碑も100年以上昔に建てられたものなんだなァ)
面白いよねぇ…古墳時代についた名前が現代まで。
ところで鷹合商店街は八百屋さんがめっちゃ安くてさ♡
用事済まして古墳にコーフンして、ルンルンで野菜を買い込んで帰りましたとさ。
2024.1.31 姫松なつき
<参考文献>
・Wikipedia(酒君)
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