法雲寺① ~堺・美原にあるツツジのお寺~
春過ぎて
え、もう夏?梅雨?
ヤ~~ダ~~~
アジサイが見ごろになってきた今
ツツジで有名なお寺の紹介をしますね←
***
堺市は美原区に、見事なツツジがあることで有名な
法雲寺というお寺があるんですよ
(堺市美原区今井192)
ツツジ・・・って
そこらへんの植え込みでよく見るし
もひとつこう
満開の桜とか、バラ園のバラほど、心惹かれる花かというと
べつに・・・って感じだったんです(ぉぃ
子どもの頃、公園のツツジをむしっては
蜜吸ってた思い出くらいしかないというか
(おいしいよね。知ってる?)
ただ、「ツツジの寺」と謳うだけあって
こんなツツジ見たことない!!!ってくらい
ホント、びっくりするくらいツツジなんですよ見て↓
普通サイズの植え込みではないの
腰くらいの高さまであるボリューム
だけどこれは序の口で
境内中ひたすらツツジ
建物がツツジで埋もれるレベル
もはやツツジの海
山門から入ると、ツツジの壁
まごうことなき、ツツジの寺です
わたしはかつてこんなに大量のツツジ、見たことない・・・
花の中でツツジが一番大好き!っていう人はあんまり聞きませんが
これは一見の価値ありでございます
どうぞ、4月半ば~後半が見ごろなので
まだ訪れたことがない方は来年どうぞ
ところで
この門、ちょっと変わってることにお気づきでしょうか
門はもう一つあって
こちらの南門の方がより独特な形をしています↓
なんとなく、中国っぽい
そう
中国っぽい建物のお寺といえば、黄檗宗~~!
以前、難波にある瑞龍寺をご紹介しましたが
そこと同じ、黄檗宗のお寺なんですね◎
(黄檗宗について、詳しくは「瑞龍寺」をご覧ください♪)
禅宗の1つであり、江戸時代に隠元隆琦という
中国のえらーいお坊さんが開いた宗派
隠元さんが日本に持ち込んだ中国風の建築物や袈裟などが
当時の日本人には衝撃的だったために
現在でも黄檗宗のお寺は各所がそこはかとなく中国風で
他の宗派とはちょっと違う見た目なんですね
法雲寺は黄檗宗の中本山格のお寺なので
歴史も深く、ツツジ以外の見どころも多くあります
ではでは
その縁起からご紹介しましょう~~
***
江戸時代は1672年
黄檗三傑と呼ばれるお坊さんの1人、慧極道明というお方が開山しました
もともとは弘法大師が開いた神福山長安寺という
真言宗のでっかい寺院だったのですが
1620年に狭山池の堤防が決壊し
そのために起きた西除川の氾濫によって流失してしまったそうで
その後紆余曲折あり、1671年のこと
曹洞宗の宗月さんというお坊さんが、
今井村から長安寺を譲り受けたんですが
ある夜、夢をみましてね
その夢の通りに竹林の土の中を掘ってみると
なんとまぁ観音像が出てきまして(テッテレー!)
それを草庵に安置してから
はてさて今後どうしたものかと檀徒と相談
黄檗宗の開祖である隠元さんの孫弟子で
黄檗三傑のひとりとよばれる 慧極道明さんに来てもらおうやないか
となって
慧極さんにお寺をバトンタッチ
そして1674年に寺号を改められ
黄檗宗の法雲寺となったのでした
ところで
江戸時代前半というのは
日本中で一大黄檗ブームが巻き起こってたらしいんですよ
(「瑞龍寺」に続き、姫松も黄檗ブームだぜ★)
黄檗宗を開いた隠元和尚は
中国でもかなり有名なスゴイお坊さんでした
修行には厳しくても温厚でやさしくて人望の厚いお方
そんなウワサは、海を越えて日本にまで届いていました
当時の日本の外国との玄関口であった長崎にあるお寺のお坊さんが
ぜひとも日本に来てくださいとラブコール
しかしその時すでに60を過ぎたおじいさんだったので
隠元さんは「ちょっとキツイわ・・・」とお断りされました
でも来てほしい!
なんとかして日本にも教えに来ていただきたい!!!
ラブコールに次ぐラブコール
そしてラブコール&ラブコール
4度目の正直
さすがの隠元さんも、「そこまでいうなら・・・」
ということで日本に来てくれました
もちろん中国側からは「行かないで!」の声が出ましたが
隠元さんは「3年で帰るよ・・・」と約束しました
ラブコールを送ってる間に
日本国内では「中国からすごいお坊さんが来るってよ!!」と
ウワサが広まっていて
隠元さんが実際に来日するより2年も前から
江戸を出発するお坊さんもいたほど
(日本人のミーハーの血・・・笑)
いよいよ隠元さんが長崎に着いたら
昼夜も問わずに多くの人が隠元さんの元へと集まりました
黄檗宗は元々は臨済宗の一派なので
臨済宗系のお坊さんたちが集まったそうですが
長崎から次、奈良へと訪れた時も
どこにいくにも千人くらいの人が
ついて歩いてきたってくらいの人気っぷり
アイドルじいさんやん・・・←
そんな人気の中で
隠元さんは中国のお弟子さんの他に職人さんなんかも連れてきていたので
いわゆる黄檗文化と呼ばれる
当時の中国のスタイルを日本人が目の当たりにすれば
「何これスッゲ!黄檗スタイル超カッケー!!」
ってなったのかどうかは知りませんが
おそらく日本のお坊さんからしたら衝撃的だったことでしょう
黄檗文化もまたたく間に日本中に広がって
時の将軍、第4代徳川家綱さんも
隠元さんとご対面
将軍でさえ、
「ウワァァ、隠元さん!!
私も貴方についていくわぁぁ!!」
ってなって
最終的に3年で帰るはずの隠元さんは
京都に萬福寺という黄檗宗のお寺を開いちゃうんですが
そのための土地や造営費を出したのが家綱さん
萬福寺を建てた土地は
もともとは後水尾天皇の母方の御殿があった場所なんですが
この後水尾天皇という方は、出家していろんなお坊さんに
帰依していたんですが
隠元さんとも出会って、もちろんこれまた
「ワシもついていくわぁぁ!!」
ってなって
隠元さんに「大光普照国師」の号を贈ったりしたそう
そんな、隠元さんをすっかりリスペクトした二人は
隠元さんの弟子である慧極さんのこともリスペクトしていたそうです
慧極さんもまた様々な人の帰依をうけていて
狭山藩の5代藩主である北条氏朝さんもそのひとり
氏朝さんは頭のいい人で
幼いころから儒学を学び、神道を敬い
そして法雲寺で慧極さんの元で修行したそうです
曹洞宗の宗月さんが、黄檗宗の慧極さんにバトンタッチしたこと・・・
同じ禅宗とはいえ、宗派が変わることに
檀徒さんらが反対したりしなかったのかしらと思ったのですが
これだけの黄檗ブームと
隠元さんや慧極さんが国のトップとも繋がるほどの人物だったくらいだから
上手く引き継げたのかもしれませんねぇ
バトンを受け継いだ慧極さんは
およそ30年の時間をかけて、諸堂を整備し
現在の伽藍の基盤を築いたそうです
今でも創建当初の建物がいくつか残っているので
法雲寺さんの境内をご紹介・・・
と思ったのですが
長くなったので、また次回★
2022.6.19 姫松なつき
〈参考文献〉
●法雲寺ホームページ
(https://www.oubaku.org/houun/index.html)
●古社寺巡拝記
「河内西国巡礼 第六番 法雲寺〔堺市美原区今井〕
夢告によって掘り出された観音像と三千三百三十三体の本尊」
(https://koshaji.blog.jp/archives/54867080.html)
●ながさき歴史・文化ネット
「長崎と隠元~黄檗文化の広がり~」
(http://nagasaki-bunkanet.jp/wp-content/uploads/2015/03/%E3%80%8E%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%A8%E9%9A%A0%E5%85%83%E3%80%8F%E4%B8%8A%EF%BC%88%E8%A6%8B%E9%96%8B%E3%81%8D%EF%BC%891.pdf)
●大阪狭山市ホームページ
「狭山藩による武家文化」
(http://www.city.osakasayama.osaka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/49/k6syou1%20(2).pdf)
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。