ハーイ!埴輪なつきでございます!

本日は!

近鉄南大阪線・古市駅よりすぐ近くにあります
安閑あんかん天皇陵古墳についてご紹介したいと思います~~~!!!

(羽曳野市古市7-1-3)
これもね・・・
夏に、百舌鳥古市古墳群世界遺産登録3周年記念イベントで羽曳野市役所に訪れた際に古墳巡りをしたうちの1つです
(記念イベントの話はこちら⇒「百舌鳥古市古墳群、世界遺産登録3周年記念!」)

あれ・・・たしか7月・・・
え・・・もう12月・・・ウソやん・・・・・・

***

安閑天皇は、第27代天皇

百舌鳥・古市古墳群にある天皇陵はほとんどが仁徳さんの子孫
(仁徳さんのパパン・ママン、おじいさんひいおじいさんもいるけども)

で す が

安閑天皇は、仁徳さんを直接の先祖とはしていません

仁徳さんの弟、稚野毛派皇子わかぬけふたまたのみこの子孫
(だからまぁ、応神さんの直系ではある)

仁徳さんの直系は、25代武烈ぶれつ天皇の代で
男児が生まれる前に武烈さんが亡くなってしまったために、途切れてしまいました

次の天皇どうする!?ってなったときに
朝廷が必死のパッチ(死語)で仁徳さんの兄弟筋を探しに探して
越の国(現在の福井県らへん)で暮らしていた男大迹王おおどのおおきみを発見

このお方は仁徳さんの弟・稚野毛派皇子のひいひい孫にあたるお方
(つまり、応神天皇から5世の子孫)

見つけた!アナタが次の天皇です!!
ささ、大和朝廷へ!!早く!!!!!!

とか急にいわれても、男大迹王はいくら天皇家の血を引いてたとはいえ、しょせん地方豪族のひとり

そんなん絶対ドッキリやん!
何かの間違いか、何か企みあるに違いないやん!!

と当然疑ったようですが、調べてみるとマジっぽい

ということで、すぐに大和朝廷の本拠地があった奈良には向かわなかったものの
大阪府の北部を活動の拠点として、樟葉宮くずはのみや(枚方らへん)で天皇に即位
26代継体けいたい天皇となりました

継体天皇は後に、仁徳さん筋の24代・仁賢にんけん天皇の娘・手白香皇女たしらかのひめみこを奥さんに迎え、自分の系統と仁徳さんの系統を合体させましたとさ

そこから生まれたのが、29代・欽明きんめい天皇
仏教ウェルカムした、聖徳太子のおじいさんですね!

安閑天皇は、欽明さんとは異母兄弟
継体パパは、天皇になる前から尾張目子媛おわりのめこひめ(尾張(愛知県らへん)の豪族の娘さん)という奥さんがいて、すでに子どもがいました

名を、勾大兄皇子まがりのおおえのみこといって
お父さんが都に行くことになった際、 勾大兄皇子もついてきたんですね

勾大兄皇子こそが、後の安閑天皇なのですが

継体天皇が亡くなった後、安閑天皇がすぐに即位したという説と
2年の空白の後に即位したという説があるそうなんです

正直、長男とはいえ地方豪族レベルの母親の息子か
仁徳さん筋の血を引く母親の息子であれば、後者の方がより天皇家の血が濃くて、次期天皇候補になりそうでしょう?

継体さんが亡くなった時点で、欽明さんは23歳だったので、年齢的にも十分即位可能

実際、継体天皇崩御後2年の空白があったとされる説では、
安閑天皇が即位するまでに欽明さんがチラッと即位したかもしれない説もあるとかないとか

対して、継体さん崩御後すぐ即位した説は『日本書紀』によるところのもので
継体さんが朝廷に来て、仁徳さん筋の女性を奥さんにしたところで、必ずしも皇子が生まれるとは限らないから
朝廷に来るとなった時点で、継体さんの次は長男の勾大兄皇子くんを天皇にしましょう、という話がもともとされてたそうなんですね

それでも、『上宮聖徳法王帝説』等には2年の空白があったとかなんとか書いてあるもんだから

即位をめぐって矛盾があるね・・・?

『日本書紀』の話が本当なら、これは譲位の初例となるそうですが
どうも微妙で作為的とも考えられてるとかで、皇位継承にはひと悶着あったんじゃないかというのが、お偉い研究者の方々の見かたらしい

ともあれ

安閑天皇は即位されました

しかしそのとき、もう60歳をすぎたいいおじいちゃん
わずか5年ほどと短い在位となりました

が、この短い間にも、安閑天皇は朝廷の経済基盤を強化する実績を残しています

朝廷の直轄地である屯倉みやけを全国あちこち30カ所も設置したのだとか!

屯倉というのは、稲穀の耕地だったり、付属の灌漑施設だったり、山や海が近ければ狩猟での獲物や海産物を王室に納めたり
朝廷が管理する地方の土地のこと

むかーしむかしからあったのですが
安閑天皇の時代に全国にバババッと増えたそうです
そりゃ、増えれば増えるほど朝廷は強くなるよね

おまけに、安閑天皇の時代は五穀豊穣で、穏やかな治世だったよう

そんな安閑天皇

全国あちこちで神さんとして神社にお祀りされてることをご存じかしら
わたしは知らなかった←

屯倉増やして穏やかな治世やったからって、そんな祀られるほどか・・・?と思うじゃないですか

どうやら、蔵王権現ざおうごんげんという仏さんと関係が深いようなのです

蔵王権現はインドから伝わった仏さんではなく
日本独自の山岳信仰と仏教が結びついた日本独自の信仰・修験道の本尊

修験道の開祖である役小角えんのおづのによって初めて祀られました
一番有名なのは、修験道の総本山である、奈良県にある金峯山寺きんぷせんじ

そして蔵王権現は全国各地に祀られるようになったわけですが

蔵王権現
正式名称を「金剛蔵王権現」といいまして

安閑天皇のおくりな(死語につけられる名前)を「広国押建金日命ひろくにおしたけかなひのみこと」というんですが

この、安閑天皇の諡に「金」の文字が入っていることから、蔵王権現と同一視する神仏習合の考えが広がっていき、安閑天皇が神格化されていったのです

また、『和漢三才図会』という江戸時代の書物に

「伝承によると、安閑天皇が崩御して4年後に金峯山に現れた人が
 『我は広国押武金日丸(天皇)なり。(蔵王)権現は安閑天皇である。』
 と伝えた」

という感じのことが書かれてるんですって
それでまぁ、蔵王権現=安閑天皇ということになって
明治時代の神仏分離の際に、蔵王権現として祀っていた神社は、ご祭神を安閑天皇として祀るようになったから、全国各地に安閑天皇が祀られてるというわけです

 

そんな安閑さんの古墳がこちらッ!

古市駅前の通りをずーっと南に歩いていくとあります
歩道ないのに車バンバン通るので気をつけて

安閑さんはじめましてーっ!!!

6世紀前半に築造された長さ122メートルの前方後円墳
しかしながら、室町時代に畠山氏の居城・高屋城として改修されてしまったので、墳丘の形はほぼ原型をとどめていません

てっぺんに本丸建てやがったんだってよ・・・
おのれ畠山ァ・・・!

まぁ、すでに堀があって小高くなってるところなんて、城建てるのにぴったりすぎるもんね・・・
しかもこのあたりは高台になってたらしく、城塞を築いてまるっと陣取ってたそうです・・・

城があったのか・・・と思うと
この木の生えっぷりがなんというか・・・
兵どもが夢の跡・・・って感じ

織田信長の猛攻を受けて落城したんですって
お墓の上に城なんて建てたからバチが当たったんだわ!

安閑天皇陵古墳は、ぐるっと一周まわることができません
ほんのちょっと南に、安閑天皇の奥さんの古墳もあるのですが・・・
この日は力尽きてそこまでたどり着けませんでした・・・

今年はこれが最後の古墳記事になるかもしれません・・・
(とか言って、ニュッと出てくるかもですが★)

大阪にはまだまだ天皇陵も、それ以外の古墳もたっくさんあるので
来年もいっぱいご紹介していけたらなと思います♪

それでは、また来年!
みなさまよいお年を~~!!!

2022.12.4 埴輪なつき

〈参考文献〉

●公益財団法人 関西・大阪21世紀協会
なにわ大坂をつくった100人 14話 継体天皇
広国神社ホームページ
●WEB 歴史街道
安閑天皇(第27代)から宣化天皇(第28代)への皇位継承
●山の辺の道 散策ガイド
第27代 安閑天皇
●あいちを巡る生活って
安閑天皇
●仏像ワールド
蔵王権現
●『百舌鳥・古市古墳群ガイド(発行者:宗形康)』
●『綜合ムック 歴代天皇をゆく!』

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ページ上部へ戻る