大阪は天王寺にあります、堀越ほりこし神社

(あれぇ・・・つい最近参ったと思ったのに、5月・・・だと・・・?)
 時間の流れが早すぎて恐ろしい・・・)

JR天王寺駅からもほんスグ

(大阪市天王寺区茶臼山町1-8)

天王寺はハルカスやキューズモールやミオなんかがある商業地ですが、
四天王寺や一心寺などの有名なお寺もあるし
また、大坂の陣での古戦場としての史跡もたくさんあって、常に老若男女で溢れてますね
(梅田・なんば以上に、天王寺のカフェは座れたためしないんだけど、わたしだけ・・・?)

堀越神社は古くから
「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」という言い伝えもあって
それはそれは平日でもたくさんの人が参拝にいらしています

この言い伝え、「ひと夢祈願」と呼ばれ
大阪のみならず全国から御祈祷を受けにいらっしゃるほどだそう

・・・大阪人だけど、初めて聞いた~~(汗)

なんでそう言われてるのかは、ちょっと調べてみたけどわからなかったのですが
昔から言われてるのだからそうなのでしょう

では、どんなご神徳のある神さんが祀られているのでしょうか

ハイ

ご祭神は、32代・崇峻すしゅん天皇でございます◎

崇峻天皇は、聖徳太子の時代のお方

崇峻天皇について、堀越神社のホームページには
「587年、その英明さを以って、皇族はじめ朝廷の群臣に推されて即位。」とあります

そして、堀越神社の創建由来については
「第33代推古天皇の御代、時の摂政聖徳太子が、太子の叔父君に当たらせられる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚にして長松直々たる茶臼山の地をえらばれ、四天王寺建立と同時に当社を創建された」と

ほほう、それはさぞ素晴らしい天皇だったんじゃないかしら

と思うやん?

ンンッ

もちろん、由緒正しき堀越神社様の公式サイトに書かれていることを否定なぞするつもりは毛頭ないのですよ

ないのですが、事実として、『古事記』には「歴史上、弑逆された唯一の天皇」として書かれているんですよね・・・(ゴクリ)

***

堀越神社の創建については、神社の由緒書きにある通り、聖徳太子による創建でございます

なので、とっても古い神社ですね

聖徳太子は、四天王寺建立に際し、四天王寺を保護するために7つの神社を建てました
これは「四天王寺七宮」と呼ばれ、堀越神社もそのひとつ

では、崇峻天皇とは、聖徳太子の時代においてどのような人物だったのか・・・ということを
古代史好き姫松がちょろりと説明させていただきます(チョロリ)

***

聖徳太子っていうと、仏教

日本に仏教がやってきて、「エエやんそれ!」ってなったのが、29代・欽明きんめい天皇と、蘇我稲目そがのいなめさん(蘇我氏)

対して、「いやいや日本には八百万の神さんがおるんやから、ホトケとかわけわからんもん信じたらアカン!」って仏教反対したのが物部氏

欽明さんの次は、その息子である敏達びだつ天皇
敏達さんは「オヤジが仏教仏教って言うけどオレには解せん」ってことで、物部氏とタッグを組んで蘇我氏と対立するのですが

敏達さんの次、用明天皇
敏達さんと同じく欽明さんの息子である用明さんは、お母さんが蘇我氏の人だったため、仏教エエやん派で蘇我氏と仲良し
そして、この用明さんこそ、聖徳太子のお父様

ただ、用明さんは病に倒れて即位後まもなく亡くなってしまいます

で、次の天皇を誰にするかってなったとき

まだあと二人、欽明さんの息子が残ってたので、そのどっちかしかなくて
(当時はまず兄弟で継いでいくスタイルでした)

物部守屋は、穴穂部あなほべ皇子をプッシュ
蘇我馬子は、泊瀬部はつせべ皇子をプッシュ

蘇我VS物部と、後継争いが勃発ですよ
(各々なぜこの皇子をプッシュしたのかは割愛・・・色々あるのよ、イロイロ)

このとき蘇我氏が勝って、泊瀬部皇子が即位したのですが
この方こそ、崇峻天皇

崇峻天皇のママンは小姉君おあねのきみといって、蘇我稲目の娘さん
つまり、崇峻天皇は馬子さんにとって甥っ子

ややこしい物部氏も倒して、馬子さんが朝廷でブイブイいわせてても、親族同士仲良くしてたらよかったんですけども

崇峻天皇は、自分が天皇になったのに、自分以上にブイブイいわせてる馬子さんに腹立ってきたんですね

ある日天皇に猪が献上されたときに、ポロッと

「いつかこの猪の首を切るように、憎きヤツを斬ってやりたい・・・」

と口にしちゃったんですって

そりゃもう、周りにいた人たちザワザワしちゃって
でも、そんなん馬子さんの耳に入れたら大変なことになるから何も聞かなかったことにしとこ、ってなった人がほとんどだったんですけども

馬子さんに告げ口しちゃった人がいるのです

それは、天皇の奥さんである、小手子こてこさん
夫からの愛がなくなってきたことを恨んだあてつけに、馬子さんに密告した・・・ということが、『日本書紀』にあり

そしたらもうね
馬子さんったら容赦なくね
バサーッと崇峻天皇をヤっちゃったんですね
(もちろん刺客使って。直接己の手は汚さない★)

***

っていうね★

長い長い天皇家の歴史の中で、全ての天皇が聖帝だったわけではないですし
ドンパチしちゃったり、島流しにされた天皇さんもいますけど

家臣にあたる者から暗殺されたのは、崇峻天皇だけ
(20代・安康あんこう天皇もワケあって暗殺された天皇ですが、暗殺者は家臣ではなく天皇家の人間)

聖徳太子は馬子さんとウマが合ってたはずだけど(ウマウマ)
はたして、馬子さんが暗殺した崇峻天皇を祀る神社を建てるとは、どういう雰囲気だったんでしょうね・・・

「それはやりすぎですよ馬子さん
 可哀そうな叔父君のために、私が神社を建てましょう」

ってなったのか・・・?
そうなると

「ワシを殺そうとした崇峻天皇を神として祀るだと!?」

ってなりそうなもんじゃない?馬子さん

それでも、聖徳太子が建てたというのだから
怖いモンなしな状態の馬子さんよりも、やはり聖徳太子はすごかったのかどうなのか

***

堀越神社のご祭神は崇峻天皇を主祭神として、配祀神として崇峻ファミリーを祀っています

奥さんの小手姫おてひめ皇后(小手子さんのこと)と、息子の蜂子はちこ皇子、娘の
錦代にしきで皇女

奥さんて・・・
崇峻天皇が暗殺されてしまうきっかけ作った人やん・・・(汗)

堀越神社ホームページには、崇峻ファミリーについての記載もありますが、チクったのが小手子とは一言も書いてありません←

いわく、崇峻天皇は、当時国内・国外の諸問題に力を尽くし、特に戦乱で荒廃した朝鮮半島・任那の復興に心を配られたそう

いわく、崇峻さんの長男・蜂子王子は、お父さんが亡くなったことを深く悲しみ、権謀うずまく大和朝廷に嫌気がさして、遥かな地の果て、東北地方に安住の地を求めて、崇峻さんの霊を弔おうと大和を脱出、北陸を抜けて出羽(現在の秋田と山形のあたり)へ

日本三大三嶽宗教の1つである出羽三山の開祖はこの蜂子皇子であり、出羽の文化・産業の始祖として、修験道の祖として、出羽地方の人々に崇敬されているそう
(蜂子王子のお墓は東北地方にある唯一の皇族のお墓)

なんかすごい息子おるやん、崇峻さん・・・

そして奥さん

『日本書紀』には馬子にチクったとありますが
堀越神社のホームページいわく
夫の服喪の後、息子の後を追って東北へ行き、福島県小手郷堂平を安住の地とし
皇后時代より天才的といわれた養蚕の技術をその地の人たちに教え伝えたそう

福島県が養蚕産業の発祥地とされるのは、小手子さんのおかげなのだとか

ウウンッ

神社ホームページからは馬子さんただ一人が圧倒的悪者として描かれていますが
人生色々・・・史実も色々・・・解釈も色々・・・?

神社の創建由来と、『記紀』にある史実はけしてまとまったストーリーとしては繋がりませんが
この話に登場する人たちは実際は何をどう考えていたのか、どんな感情が入り組んでいたのかなど考えると・・・わくわくしますねぇ
歴史って、おもしろい

とはいえ、堀越神社において、崇峻天皇は神さんですから
小手子さんも、神さんですから

1つの夢を叶えてくださる神さんですから!!

歴史書の中のエピソードはいったん置いておいて
神社では、心静かにお参り致しましょう

さてさてさて

崇峻さんストーリーが長くなってしまいましたので、今日のところはこのへんで

次回、堀越神社の境内の見どころなどをご紹介したいと思います~~◎

2022.11.20 姫松なつき

〈参考文献〉

堀越神社ホームページ
●大阪の情報サイト We love 大阪
大阪最強のパワースポット【堀越神社】は一生に一度のお願いを叶えてくれる神社!
●PRESIDENT Online
「日本で唯一の暗殺された天皇」結果として日本初の女性天皇を生んだ崇峻天皇の″ある失言″

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