叡福寺へ行った後、近くにあった
用明天皇の古墳にも行ってまいりました。

用明天皇。そう、聖徳太子のお父様です!
聖徳太子の古墳の周辺には、
聖徳太子と関係の深かった人たちの
古墳がいくつか集まっています。
というか、蘇我氏ゆかりの人物の墓が
集まっているんですね。
聖徳太子のパパもママも、
聖徳太子が摂政をしていた
推古天皇も皆、蘇我氏の血縁。

古墳自体は、
住宅地の中にあるこじんまりとした印象・・・
でしたが、東西65メートル、南北メートル、
空壕に外提(今は見えないけど)まで含めると、
一辺が100メートルを超える巨大な古墳、
らしいです。
そりゃあ長さが500メートル近くある
仁徳さんの古墳に比べたら小さいけど、
十分立派。
形は、これまた気づかなかったのですが方墳(四角形)。
そして方墳としては全国5位の大きさなんだとか。
いやはや・・・失礼しました(汗)

あんまり古墳自体について語ることはないので、
用明さんの小話など。

用明さんのお父さんは欽明さん。
誉田八幡宮や百舌鳥八幡宮を建てた人ですね。
お母さんは蘇我稲目の娘さん。
つまり、稲目氏の孫になります。
推古天皇は同じママンの妹。

仏教推しの蘇我氏の孫であるため、
用明さんは崇仏派で仏教を重んじ、
王朝において仏教を公認していました。
しかし用明さんは、
天皇になってわずか2年で病気で
亡くなってしまいます。

次の天皇をどうするかとなったとき、
仏法反対派である物部氏が、
ひそかに通じていた用明さんの
腹違いの兄弟である
穴穂部皇子(あなほべのみこ)をプッシュ。
(穴穂部皇子は、腹違いとはいえ
同じく稲目氏の孫だったのだけど、
用明さんの先代である敏達天皇が死んだとき、
自分が次の天皇だと思っていたところに
蘇我馬子の推しによって用明さんが
天皇になってむしゃくしゃして、
物部氏と繋がっていたのです。
うらみつらみ~~)

しかしそんなこと、
馬子さんが許すわけがありません。
穴穂部皇子は馬子さんの仲間たちによって
殺されました。
同じ年に、馬子さんは物部氏も
滅ぼしてしまいます。
強い。

と、いうわけで、
なんかもう馬子さんの話みたいに
なってしまいましたが(汗)
推古天皇&聖徳太子の時代の前に、
用明さんが天皇になって
仏法を大切にしてくれていたからこそ
今があるのかもしれません・・・ね。

聖徳太子のお墓に参った後は、
太子パパ・用明さんへ思いを
馳せに来るのもいいのではないでしょうか。

2021.3.19 姫松なつき

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