まいどまいど
引っ込んだと思ったらすぐに舞い戻ってまいりました!
埴輪なつきでございます♡

だいぶ涼しくなってきましたね!
古墳巡りの季節でございますよ!!
ドゥッフフフフフ♡(笑い方のクセが強い)

***

7月、百舌鳥古市古墳群の世界遺産登録3周年を記念したイベントで、羽曳野市役所の屋上から古墳を眺めてきたわたくし
(「百舌鳥古市古墳群、世界遺産登録3周年記念!」の記事では、応神天皇おうじんてんのうりょう陵古墳・墓山はかやま古墳・向墓山むこうはかやま古墳・西馬塚にしうまづか古墳についてコーフン気味に語っております、よければお読みください♡)

地上に降りてからも、少々古墳探索してきたんですね

つい最近も、用があってついでに古市古墳巡りしてきたのですが
1古墳ずつ消化していきましょう

本日ご紹介するのは、野中宮山のなかみややま古墳でございます!ッフー!!


(藤井寺市野中2丁目1)

この写真は、古墳の南東側から撮影したものです
周濠がなく陸になっていますが、古墳の北側半分は周濠の名残が池のようにあります

(北東側から撮影。藻がすごくて陸に見えてしまうけど、水が張ってる)

野中宮山古墳は、昔から寺や神社が建てられたり、近代では学校や幼稚園に場所を利用されてきたため、形状は大変崩れています
そのため、世界遺産登録からは外れ、国史跡の指定も受けておりません

でも、もう今後ゴリゴリ削られることはないでしょうし
ある意味身近に触れられる古墳として貴重かもしれない

そう

登れるんですよこの古墳は・・・!

ちゃんと階段があってね、登りやすい
ただ、虫嫌いが夏に行くもんじゃないね・・・あらゆる虫が・・・もう・・・(ゾッ)

古墳にコーフンするよりも、視界に虫が入らないように虚空を見つめて登ることになってしまいました←

元の姿からは変わり果て、史跡の指定もされていないとはいえ、もちろん色々調査はされているのでわかっていることは多々ございます

築造されたのは、4世紀後半だろうと推定されています
応神天皇陵古墳が5世紀前半の築造なので、それより古いようです

なんでも、前方部が後円部よりも低く、幅も狭いらしく、それはつまり、古い形態を残した古墳だということなんですね
墳丘は3段造りで、長さは154メートルの前方後円墳
百舌鳥古市古墳群としては小さい方になるかもしれませんが、全国的に見れば十分な巨大墳です

円筒埴輪の他にも、家・衣蓋・盾・囲み・水鳥・鶏・馬・猪形など色んな形象埴輪が出土しています

ついでに、濠の中からは平安~鎌倉時代くらいに使われていた土器が多く出土しているらしく、この時代にはここはゴミ捨て場にされていたそうです・・・バチあたりか(汗)

埋葬施設の有無は不明とのことですが、後円部に板石が散乱していたとのことから、竪穴式石槨が存在する可能性があると考えられているとのこと
そりゃあ十分な大きさの前方後円墳なんだもんね・・・!

古墳の南側、周濠が埋め立てられた場所は現在、野中宮山児童公園となっています

公園に隣接する前方部の大部分と周濠後の一部は、2020年まで藤井寺南幼稚園野中分園の敷地となっていました

それより前は、藤井寺南小学校の分校が
そのさらに前、明治時代には小山尋常小学校(現藤井寺小学校)の野中支校や分教場が置かれていたとのことで、近代になってからはずーーーっと学校関係の施設があったんですね
(今は全ての施設が撤去されてるそうだけど、その後この土地はどうなるんでしょうね・・・?

学校施設ができる、明治より前はというと
満願寺というお寺があったそうです
神仏分離令によって明治5年に廃寺になってから、学校が建ったんですね

その満願寺っていうのはいつからあったお寺なのかというと

もともとこの辺りは、7世紀頃の創建と推定される古代寺院、野中満願寺があった場所とされているそうなのですよ
めっちゃ歴史ありまくりやん・・・
古墳の西側に隣接する一角が推定伽藍配置の場所であるとこまで調査されてるですって

しかもこの満願寺
江戸時代に出版された『河内名所図会』によると

〈野中村にあり。野中山と号す。真言宗。聖徳太子御建営の地なり。本尊薬師仏座像、一尺二寸。又、十一面観音立像、一尺八寸。鎮守、牛頭天王、此所の本居神とす。(以下略)〉

って

えぇーーー!!
聖徳太子が建てたんだってーーーー!?!?!?

えぇぇ、そんなすごいお寺さえ、なくしてしまったのかね神仏分離令・・・

ところで、さっきの階段の写真

この、2つの小さな社、手前にある方は「瑠璃殿」と書かれていて、薬師如来が祀られているようなんです
満願寺の名残なのかな・・・?(社の正面にある石柱に「薬師如来」と刻まれています)
奥の方は何が祀られているのか不明

ほんでよ

さっきチラリと鳥居も見えていましたが
この階段を上ると神社があるんです

正面鳥居は公園のある南側にあり

野中(のなか)神社といいます

こちらの神社の創建年代はよくわかっていないそうですが
901年に編さんされた『日本三代実録』に、875年に従五以下が授けられたと記されていることから、1000年以上の歴史ある神社らしい・・・
(『延喜式神名帳』には記載されていないので、式内社ではない)

こんだけ古いということはですよ
古代豪族が祖神を祀るために創建したんじゃないか、と考えられるんですね

じゃあ誰か

このあたりは丹比郡野中郷と呼ばれていて、社名にもなっている“野中氏”という一族が建てたんじゃないかという説があるそう

野中氏ってのは何者かというと
5代孝昭こうしょう天皇を祖にもつ古代豪族・彦国葺命ひこくにふくのみことの後裔

というわけで、野中神社では野中氏による創建だとして、 彦国葺命をご祭神としてお祀りしています

実際には、野中郷を本拠地としていたのは渡来系のふね氏で、野中氏の存在は確認されていないんだって・・・

船氏といえばさ
というか、“野中”といえばさ

以前に紹介した、野中寺やちゅうじ
(「野中寺~聖徳太子が建てた寺?~」)

聖徳太子による建立といいつつ、実際は船氏の氏寺じゃないかと言われてる・・・ね

聖徳太子建立っていうのは太子信仰の高まりの中でいわれるようになった説
・・・満願寺もそうだったりするのか・・・?

野中神社については、実際は船氏と関係深い神社だったのかもしれないけれど
創建年代・創建理由・創建人物はすべては謎のまま

しかも、今ここに神社があるのは確かだし
「野中神社」というのがこのあたりにあったということも、歴史書の中に名前があるので確かなのだけど
1000年の間ずーっとこの古墳の上に野中神社があったのかというと、それがまたあやふやなんですね

諸々の資料に、羽曳野市野々上にある法泉寺の鎮守に「野中神祠」があるという記載があって
江戸時代にはこれが野中神社と考えられていたそうなのですが

いやさすがにそんな小さい祠なわけないやろ、ってことで

野中宮山古墳の上に建つ「産土神社」こそが野中神社ちゃうん・・・?
と考えられるようになったのが、明治5年のこと

満願寺廃寺と入れ替わるかのように、古墳上の神社が野中神社として村社に定められ、このあたりに住む人々の鎮守社となりました

そうそう、この元産土神社では牛頭天王ごずてんのう(後に素戔嗚命すさのおのみこと)を祀っていたので、現在の野中神社では彦国葺命と素戔嗚命をお祀りされています

牛頭天王・・・
満願寺の鎮守に牛頭天王やったんやろ・・・?
やっぱ、こっちこそが1000年の歴史ある野中神社なのでは・・・?ふぅむ

明治40年には、政府の神社合祀政策によって、同じく藤井寺市にある辛国からくに神社に合祀されたそうですが
やっぱこっちに祀っていてほしいよ・・・!という地元民の熱い要望で現在地に復社されたとのこと

なかなかどうして、歴史ありまくりな土地じゃぁありませんか・・・
ワクワクするね!!!
(訪れた時は虫だらけでワクワクどころかゾワゾワやったけど←)

公園内にお稲荷さんもあるのですが、こちらの社名は不明

なかなか年季が入ってて、夜とかちょっと怖そう・・・←

夏場は虫が平気な人なら木陰で涼しく良いところかもしれませんが
訪れるべきは春のようです
なかなかの桜の名所なんですって!
秋には紅葉も美しいそう。これからですね♪

まだ謎の残る野中神社に歴史ロマンを感じるもよし
古墳登山でコーフンするもよし
街中の自然を感じるもよし

楽しみ方いろいろ、野中宮山古墳&野中神社
皆さまぜひ訪れてみてください♪

2022.10.2 埴輪なつき

〈参考文献〉
●藤井寺市ホームページ
野中宮山古墳
●藤井寺南小学校ホームページ
野中宮山古墳
●Web風土記 ふじいでら
藤井寺市の桜の名所 野中宮山古墳

●南河内に何がある?
野中神社|古墳に建つ神社は野中氏の創建?それとも・・・~藤井寺市~

●『百舌鳥・古市古墳群ガイド』(発行者:宗形康)

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