その昔、洪水や氾濫を繰り返していた大和川

これじゃあ作物が育たない
もっと氾濫しにくい川にしよう

江戸時代、ついに幕府が大和川の付け替え工事に
OKを出したのは、1703年の10月28日のことでした

1704年2月27日、いよいよ工事が始まります
最初は、堺の海側から掘っていったそうです

えっさほいさえっさほいさ
掘って掘って掘って掘って

付け替えが完了したのは1704年10月13日

なんと、工事開始からわずか8か月で完成したのです・・・!

すごくないですか
江戸時代よ、江戸時代
そんな文明の利器もまだなにもない時代

現代だって、もし同じ規模のことをしたとして
そんな8か月やそこらでできると思えない
(クオリティーは現代の方が圧倒的だとしても)

ウネウネしまくってた大和川を
ほぼストレートな感じで大阪湾に流れ出るようにしたことで
見事洪水の被害は収まりました

ところで
流れてきた砂やなんかで
河口付近には埋め立て地ができたんですね

住之江の南港とかは、ゴミの埋め立てでできた
現代の埋め立て地ですが
住吉大社から西に続く土地は
江戸時代にできた埋め立て地というわけです

新たにできたこの辺の土地を見て
両替商をしていた加賀屋甚兵衛かがやじんべえという人が

霰松原あられまつばらから西の方の浅瀬・・・
 新田にええんちゃうん」

と思いつき
(霰松原は住之江区安立町にある古い神社
 詳しくは「霰松原神社」の記事をお読みください♪)

1728年から開墾、1737年に完成しました
これを、北島新田といいます

甚兵衛さんの出身地の産土神うぶすなかみである水分神みくまりのかみを勧請し
1737年9月26日にご鎮座
高い砂丘に位置していたことから
高砂たかさご神社と命名されました

北島新田ができて、さらにまだ西にも土地がある
というわけで、また新たに開墾されたのが加賀屋新田

こっちにも、水分神を勧請してお祀りしたのが1755年
こちらの名前は、高崎たかさき神社と命名されました

名前の由来は、高い岬の先端に位置していたから

というのも、このあたりは埋め立て地と言われていますが
創建約180年になる高崎神社に対して
境内にあるご神木の樹齢はおよそ300年なんだとか

つまり、このあたり地盤全てが埋め立てられてできたわけではなく
中州だったのかなんなのかはわからないけど
少なくとも木が生えるくらい固い地盤がもともとあった土地なので
元は岬の先端だったのではないかと
高崎神社の宮司さんがおっしゃっていました

1761年、社殿造営に際し
高砂神社では柿本人麻呂かきのもとひとまろが奉斎されました

また、高崎神社にも
1837年に柿本人麻呂が合祀されました
高崎神社には、同じ時に天照大御神あまてらすおおみかみも合祀されています

産土神を祀り
アマテラスを祀るのはなんとなくわかるけど
なぜ柿本人麻呂?歌人だよね???
とちょっと疑問だったのですが

高崎神社の宮司さんいわく
「柿本人麻呂は知恵の神さんなんですよ
 水分神は水の神、アマテラスは太陽の神
 水と、太陽と、知恵をもって
 稲作を成功させようというわけです」

加賀屋新田を作るにあたって
洪水や高潮でたびたび工事が阻害されていたので
この3柱をもって祈願したというわけです
なるほどー!

高砂神社と高崎神社は
新田開発とともに、加賀屋甚兵衛さんが建てた神社
それぞれの距離は300メートルほどしか離れておらず
境内の雰囲気もなんとなく似ている
兄弟みたいな神社です

次回、ふたつの神社について
境内のご紹介をしていきたいと思いますー♪

2022.1.26 姫松なつき

〈参考文献〉
●300年、人・ゆめ・未来 大和川
 「大和川の付替え」
 (https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/yamato300/tukekae/tukekae.html

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