正圓寺 ~大阪五低山の一つ、聖天山の頂上にある寺~
大阪の低い山!!といえば、天保山ですね★
二等三角点(これが標高点と何が違うのかはちょっとよくわからないけど)4.53メートル
2階建ての家より低い山(笑)
以前茶臼山古墳を紹介したとき
「茶臼山は大阪アルプス最高峰!」と書きました
(そのときの記事はコチラ→「茶臼山古墳~大阪市内の前方後円墳~」)
それで、標高点26メートル
大阪には、「大阪五低山」と呼ばれる低い山5つがあって
一番低いのが天保山、一番高いのが茶臼山
その間にあと3つ
上ることはできないけど、帝塚山古墳にも三等三角点ってのが設けられていて、高さ19.88メートルの五低山の1つになっています
残る二つが、聖天山と御勝山(どっちも標高点14メートル)
・・・両方古墳
まぁ、聖天山は正確には古墳が山というわけではありませんが
五低山、ほぼ古墳
***
聖天山のてっぺんに、正圓寺というお寺があります
(大阪市阿倍野区松虫通3-2-32)
平安時代は939年に、光道和尚という人によって開かれた歴史あるお寺
その昔、阿倍野には、この地に住んでブイブイいわせてた豪族・阿倍氏が建てた阿倍寺があったのですが、正圓寺ももともと阿倍寺の一坊だったとそうです
その頃は、今の場所より東に500メートルほど離れたっところにありました
いろいろあって、お寺も盛り上がるときもあれば衰えるときもあり
1615年にあった大坂の陣では戦火によってだいぶ衰退してしまったそうですが
元禄年中(1688~1703年)に、義道見明和尚というお方が現在の場所に移転して堂宇を建てました
今でこそ、聖天山登って下見下ろしても住宅街がずっと続いてるようにしか見えませんが
昔は西の方は海が広がるオーシャンビュー、ふもとには緑が生い茂る景勝地
それゆえ山号を「海照山」と改め、寺号も「正圓寺」に改称されました
それから時が経ち1723年のこと
京都から常如和尚というお方がやってきて、さらに諸堂を再興
そのときに、大聖歓喜天像をお祀りすると、聖天信仰がこのあたりに広がっていって
「天下茶屋の聖天さん」と呼ばれるようになりましたとさ
そうそう、この歓喜天像がですね
前回の「聖天山古墳」では「常如和尚が自ら彫った」と記載しました
これは、「Deep Experience[聖天山古墳]」を参考にして書いたのですが
正圓寺にある由来書きによると、
平安時代の慈覚大師という超有名なお方が彫ったものと伝えられているのだとか
ただ、慈覚大師が作ったとされる像は胎内仏として、日本で最も大きい木像大聖歓喜天像がお祀りされているのとのこと
つまり、常如さんが作ったのは外側なのかな・・・?
また改めてお参りに行って、お寺の方にお話伺ってみましょう・・・
さて、こちらが聖天山のふもとにある正圓寺の入り口
む、お寺なのに鳥居がありますね・・・?
正圓寺のご本尊は歓喜天
仏教の天部というのは神さんなんですよ
元はインド古来の神々ですが、それが仏教に取り入れられると、仏教の教えや仏を信ずる人々を守る神さんとしての役割があるんですね
天部の神さんたちは穢れを嫌うとされているので、天部を祀るお寺にはこうして鳥居があるんですって
鳥居をくぐり、振り返れば朱色の鳥居が
「初辰まいり」ののぼりが立っていますね
「初辰さん」というと住吉大社が有名よね
毎月最初の辰の日にお参りして、商売繁盛や家内安全を祈るっていう
これ、住吉大社が始まりなのかどうかはわからないのですが、大阪に古くから伝わるものなのです
登っていくと、山門が見えてきました
山門の手前には不動明王などの石仏がずらり
山門をくぐると、また鳥居
本堂にたどり着くまでにとことん穢れを落とすシステム!
歓喜天を祀る本堂の前に、「聖天山山頂」のしるしがありました
/ヤッホーーーーー!!!\
頂上からの眺め
昔はこれがオーシャンビューだったんですってよ・・・
本堂の右側には寺務所
その横に毘沙門天と不動明王がお祀りされえています◎
また、左側にはちらりとキツネが見えている通り
お稲荷さんが祀られています
お稲荷さんの右側には釈迦如来が祀られているのですが
これが、「おおさか十三仏めぐり」の第2霊場となっております
「おおさか十三仏めぐり」・・・だいぶ前にチェックしてたのに、忘れてたぁ(汗)
(「おおさか十三仏めぐり」)
境内にはさらに、
弘法大師を祀る大師堂(右)と、1つの堂宇ながら地蔵堂(左)もあり
(逆光でぼやけてます 汗)
こっちもお地蔵さん
北向延命地蔵堂
色々とぎゅぎゅっとつまったお寺なのですが
これだけじゃぁない
一度山門を出て、本堂のある敷地の東側へ回りますと、奥之院と呼ばれる場所があります
ここも正圓寺の境内で、鎮守の神がお祀りされています
こちら鎮守堂、別称・白玉さん(かわいい)
ご本尊は仏教系の稲荷信仰の神、荼枳尼天
ダーギニーというインド古来の神さんが、仏法に帰依してからは神通力や法力を持つ、護法善神となったもの
こちらが寄松塚、別称・八本松竜王
寺伝によると、聖武天皇が鎮護国家を祈念してこの地に霊宝を埋め、その記念に松の木を植えたのだとか
昭和の初めまでは、天を覆うほどのでっかい松だったそうで、1つの幹に8つの枝が伸びる大木だったことから「八本松」の名がついたそう
そんなすごい松の木だから、松霊といわれる竜王さまが宿っているとされています
が、第二次世界大戦の大阪空襲で正圓寺のお堂が諸々燃え、この松の木も半分が炭化してしまったのだそう・・・
現在は古株を残すのみになったとはいいますが、それでもかなり見ごたえのある松の木ですよ・・・!
他にも、石切社の分祠があったり、浪切不動明王、弁財天が祀られていたり
どうぞ奥之院までじっくりお参りくださいませ♪
***
最後にもうひとつ小話
「つれづれなるままに 日ぐらし硯にむかひて・・・」で始まる『徒然草』
この本の著者、吉田兼好が、丸山古墳のふもとに住んでいたのです
(丸山古墳は、前回の記事「聖天山古墳&丸山古墳」に書いてあります◎)
吉田兼好、本名は卜部兼好といって、代々京都の吉田神社の神官をしておりました
和歌を好み、後醍醐天皇のお父さんである御宇多天皇に仕えてたのですが、南北朝の争いを避けて京都吉田に隠れ住み、上皇亡き後は出家して兼好と名乗り、人々は彼を吉田兼好と呼ぶように
兼好さんは都に仕えていたころから、北畠親房さんと交流がありました
和歌好きと学問好きでね
親房さんの息子、顕家くんのことについては、文武両道のめっちゃエエ子や!ってんで兼好さんも目をかけていたのですが
南北朝の争いで負けて、21歳の若さで死んでしまったやん・・・
(北畠親房&顕家親子については、「阿倍野神社」をお読みください◎)
あんなエエ子が!あんなよくできた子が死んでしまうやなんて・・・!
兼好さんはがっくりきてしまって、都を離れてこの阿倍野にやってきて、丸山古墳のふもとに住むようになったのです
阿倍野では、都人の生活とは正反対に、わらを打ってむしろ(敷物)を織って糧にするという、清貧自適の日々を送ったそうです
兼好さんが住んでた場所から聖天山は当然近く、当時は聖天山を下りれば浜辺も近く
その風景や村の人々の暮らしを眺めながら、いろいろなことをつれづれなるままに書いたものが、『徒然草』だったのです
最初の鳥居の左側に、「兼好法師藁打石」というのがございます
(柵の奥、一番右の石碑)
また、全然気づかなかったので写真ありませんが
聖天山公園の南入り口、テニスコートがあるところの横に、「吉田兼好文学碑」なるものも建てられているそうです
兼好法師、徒然草、というのは歴史の授業で習いましたが
北畠親子との関係など全く知らなかったし、阿倍野に住んでいたなんてことも全然知らなくって!
また一つ、歴史のおもしろさを感じました◎
ぜひ皆さまも、阿倍野神社で北畠親子に想いを馳せ、聖天山古墳にコーフンするついでに山登りして、天下茶屋の聖天さんにお参りした後、つれづれなるままに兼好法師がこの地にいたことを思い出してみてください★
2022.9.18 姫松なつき
〈参考文献〉
●Wikipedia
「大阪五低山」
●阿倍野区ホームページ
「あべの発見!」
●正圓寺由来書きの看板
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