阿倍野神社 ~北畠親子とは~
先日、阿部王子神社と、安倍晴明神社のお話をさせていただきましたが
大阪阿倍野には、もうひとつおっきな神社があるのですよ
阿倍野神社
(大阪市阿倍野区北畠3-7-20)
名前だけみたら、なんだい地元の氏神でも祀ってるのかい?と思われるかもしれませんが
ノンノン
阿倍野神社のご祭神は、北畠親房&顕家父子でございます
親房さんがパパで、その長男が顕家さんです
いつの時代の方かというと
鎌倉幕府滅亡後の、南北朝時代
おおん・・・
この辺の歴史って、天皇やら武士やらが、やれ政治だ戦だ陰謀だってんでなかなかややこしくて、脳ミソにスッと入ってこないから苦手なのよね・・・(汗)
わたしのような人にもわかるように、まずは北畠親子がどういう人だったか、くっちゃくっちゃ嚙み砕きまくってまとめてみたので、よかったら読んでってください★
***
なんか色々あってさ
京都の朝廷が2つに分裂してたんよ(雑か)
持明院統と大覚寺統って分かれてたのを、鎌倉幕府が
「まぁまぁ、交代ごうたいでやりなはれや」
と言ったから、交代で天皇に即位することにしていたのですが
「いやや・・・なんか嫌や」
と言い出したのが、大覚寺統から即位した、後醍醐天皇
「そもそも鎌倉幕府が気に食わん」
ってことで側近と討幕計画を立てるも、バレてしまって側近が罰せられてしまいます
が、
「気に食わんったら気に食わん!」
めげない後醍醐天皇、本気の討幕モードで兵を挙げました
(これが世にいう「元弘の乱」)
天皇サイドは楠木正成がとっても強くて、幕府軍はかなりの被害を受けました
「これはヤベェ・・・思ったより朝廷が強いぞ・・・
こうなったら・・・イケ!足利尊氏!!」
おお・・・すごく耳馴染みのある人の名前が出てきました!
室町幕府をつくったお方ですね!でも、それはまだ先の話で、今は関係ありません★
尊氏さんは、この頃は鎌倉幕府の有力な御家人(将軍直属の家臣)だったので、元弘の乱を鎮圧するために駆り出されました
でもこの時、尊氏さんはお父さんが亡くなったばかりで服喪中だったので、
「今は出陣したくないです・・・」
と言ったのですが、幕府はそんなこと知ったこっちゃないとばかりに尊氏さんを出陣させました
(パワハラ上司・・・)
ここで、尊氏さんはチクリと幕府に不満を持つようになります
結果、尊氏さんはここではめちゃくちゃ活躍したわけではなかったのですが
紆余曲折あって後醍醐天皇は島流し、楠木正成は逃亡したため、ひとまず乱は鎮圧されました
後醍醐天皇は廃位されてしまいましたが
まだまだめげない後醍醐!!
島を脱出すると、近畿各地で討幕の兵が立ち上がります!
幕府は再び尊氏さんに「行っけー★」と命令するも
尊氏さんは京都にある幕府の軍事・警察機関である六波羅探題を攻め滅ぼしました
また、関東では新田義貞という人が兵を挙げて鎌倉に攻め込み、幕府を滅ぼします
鎌 倉 幕 府 、 滅 亡(完)
鎌倉幕府が滅ぶと、後醍醐天皇はシャシャシャシャッと京都に戻ってきて、天皇自らが政務を見る親政を開始します
(これが世にいう「建武の新政」)
しかし、少々自分勝手がすぎた後醍醐天皇
建武の新政は発足早々に色々問題を抱えました
まず、武士に対して冷たいこと
各地の武士は、鎌倉幕府倒したらいっぱい恩賞もらえると思って頑張ったのに、ほとんどもらえなかったもんだからプンプン
他にも行政機関が混乱したり、天皇のお屋敷建設のために税が増やされたりとあれば、そりゃぁ人々の不満も募るというもの
そして親政の成立からわずか2年後に、関東一円でどえらい乱が勃発
尊氏さんは、
「自分を征夷大将軍にしてください!そしたら乱を鎮められます!!」
と言いましたが、後醍醐天皇はイヤイヤ期
「そんなんしたら、ちゃっかり尊氏独立するに決まってるやん!!あかんし!そんなんさせへんし!!」
しかし尊氏さんは強行突破で、天皇の言うことを聞かずに軍を率いて関東に向かい、乱を鎮圧
そして天皇の予想通りに、尊氏さんは東に止まり、戦ってくれた武士たちに恩賞を与えるなど独自の動きを始めました
「尊氏ィ!!帰ってらっしゃい!!!!!」
という後醍醐天皇の命令さえも背いて、尊氏さんは京都に戻ってきません
「うぬれ尊氏ィ・・・!ええい、成敗してやるわ・・・!」
後醍醐天皇は新田義貞を総大将とした討伐軍を東へと送るも、返り討ちに遭ってしまいました
イケイケ尊氏はそのまま京都まで軍を進め、京都を占領!
どうする後醍醐天皇・・・!?
***
ここで、尊氏さんを京都から追っ払ったのが、北畠顕家さんなのです
いや~~前振りが長くなってしまいました(汗)
でも、このあたりの歴史は事前の話を知ってないとわけわかんないですからね、お付き合いくださいまし
さて、まずパパンの北畠親房さんとはどういうお方なのかというと
村上源氏の血筋を引く貴族でございます
当時の学識高い貴族トップ3のひとりとされるほど頭が良くて、後醍醐天皇の息子さんの養育係に任命されていたことから、天皇の信頼が厚かったそう
これは尊氏問題の後の話になりますが
後醍醐天皇が亡くなった後、官職の本義や神社の意義を明らかにした書を著したり、日本の歴史と伝統を明らかにして大義を説き、道義を教える著述を残したそうで、日本思想史上に大きな足跡を残したお方なのだとか
そんな親から生まれた顕家さんもすごい人で
なんと3歳で従五位下に叙任
(全30段階ある位階の中で、上から12番めのエライ人。従五位から上が貴族とみなされ、天皇にお近づきになれる位)
3歳よ、3歳
普通やったら、まだまだ赤子レベルやん???
そして14歳になるころには、従三位参議に任じられます
これは、現代にたとえると、内閣の一員くらいの位置づけなんだって・・・!
天皇お気に入りの親房さんの息子だからという贔屓は多少あったかもしれませんが、この若さでの任命は先例のないもので、相当才能豊かな人物だったのだろうと思われます
建武の新政が成立すると、北畠父子は戦乱巻き起こる奥州(東北地方)へ行くように命じられました
奥州へ行くと、顕家さんはスパパパンッと荒れくれ者たちを服従させ、尊氏さんが京都でブイブイいわせているところに奥州から軍を進めて、顕家さんが尊氏さんを追い出しました
顕家さんのおかげで京都が回復すると、顕家さんは奥州へ戻り、そこに残っていた足利軍をやっつけたりしていたのですが
九州まで逃げたはずの尊氏さんが、再び巻き返して京都を占領したとの情報が
尊氏さんは新田義貞をやっつけ、楠木正成をやっつけブイブイ
後醍醐天皇は比叡山に逃れ、
「顕家ーッ!また京都戻ってきてェー!!」
とヘルプを出すも
関東で息を吹き返した足利軍がワラワラしていて、顕家さんはなかなか京都へ戻れません
なんとか京都へ着いた頃には、尊氏さんに京とを占領されて約1年もかかったとか
顕家さんは大量の軍を率いて戦いに挑みます
美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)では勝利するも
摂津での戦いで惜しくも負け・・・
わずかな残兵になっても、それを率いて和泉国の観音寺城に拠りました
敵が堺の浦に陣を敷いたので、顕家軍は進撃
猛烈なバトルを繰り広げるも、阿倍野・石津の戦いで戦死してしまわれました
まだ、21歳という若さだったそうです
***
というわけで
阿倍野神社は、顕家さんが足利軍と戦った古戦場にあるのでございます
創建は、顕家さんが亡くなってすぐとかではなく、近代になってから
顕家さんの死後、南北朝の軍事バランスは北朝有利になり、南朝は終始押されっぱなし状態が続きました
後鳥羽サイドの英雄たちは、楠木正成も北畠家も、歴史の中に埋もれていってしまったのですが・・・
時は経ち、明治維新により歴史観に変化が起きます
明治維新は、天皇を中心とした国家を目指したもの
そう
後鳥羽天皇が、天皇親政を目指した建武の新政
これを称える歴史観こそが正統!という流れになったんですね
となると、天皇を支えた武将たちはスバラシイ人として注目され
顕家さんの御墓所の存在がきっかけとなり、近隣より顕家さんをお祀りする神社創建運動がおこると政府も認め、明治14年(1881年)に、顕家さんとその父上をお祀りして、阿倍野神社が創建されたのでした
っと
長くなってしまったので、境内の紹介はまた次回~~
2022.8.7 姫松なつき
〈参考文献〉
●阿倍野神社ホームページ
●Japaaan
「どのくらい偉いの?従五位、正一位…武将がもらう「官位」の種類が多すぎるので解説」
「戦う美少年はエリート貴族~北畠顕家」
「日本史上最悪だった男~足利尊氏」
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