日本橋のはしっこに
小さい小さい神社を見つけました

阪神高速の脇
マンションとビルに囲まれた神社

もうちょっと引きで撮りたかったんだけど 今風の若い兄ちゃんが鳥居の正面のガードレールに 座って電話してたから おばちゃんにはコソコソ写真撮ってお参りするしかできず・・・


鳥居に刻まれた文字は読みにくいですが

羽呉(はご)神社といいます
(大阪市浪速区日本橋東1-1)

でも、境内には「はきもの神社」の文字が
見えますね

羽呉神社の総本社は京都の伏見稲荷大社
なので、ご祭神は稲荷神と推定されていますが
神社の創建時期などは不明とのこと

現在、夕陽丘にある大江(おおえ)神社の
境外末社となっています

狐がいないけど、お稲荷さん・・・?


創建時期不明ながらも

一部伝承で、この「羽呉」の名前は
中国の「呉」からきているのではないかと
いわれているそうです

呉というと、三国志の時代ですね
(中国史は興味ないので全然わかりませんが 汗)

その昔、この辺りは海岸で
中国からの交易船が往来していたそうです

そして、呉の国からやってきた織女(しょくじょ)たちが
この地にやってきたことで
「名呉(なご)の海」「名呉の浜」
と呼ばれるようになりました

ちなみに、時と共に海岸は陸地化し
この「名呉」というのが「名呉町」となって
それが転じて、日本橋の南のあたりを「長町」と
言うようになったのだとか

それはそうと
そんなわけで、羽呉神社も
呉人が訪れたことが社名にも残されていると
言われているようです

ところで
着物のことを「呉服」っていうやん

この「呉」も、
中国の呉が由来という説があるらしい
(※諸説あります)

呉人がやってくるまでは
麻などの生地が中心だった日本
そこに、呉人がシルクという新しい生地を
持ってきました

この頃は、朝鮮半島の百済や新羅とも
交易があったので
シルクがもたらされたのは必ずしも呉だったかは
定かじゃありませんが
大陸からシルクがやってきて
養蚕技術や染色技術も日本に伝わり
そうして、江戸時代には現在の着物文化の
元になるものが確立

「呉服」というのは
「外国産の高級な服」という意味が
現代にも残ったものと考えられているのです

いやぁ
いつになく話の脱線が激しいですね
(おばちゃんあるある)

さて、境内に「はきもの神社」とある理由

そうそう、この辺りは「はきものの町」なんですね
全然知らなかったけど、
確かにこの神社へ来る道中
そこかしこにはきもの屋さんがありました

今時の靴屋さんというか
“はきもの屋さん”がね、ずらり
電気街の「でんでんタウン」に対して
この辺りは「はきはきタウン」て言うらしい(笑)

羽呉神社は、1740年にできた大江神社の
境外末社として
かつては天王寺御蔵の鎮守社でした
(御蔵というのは、年貢の米を収めておく倉庫)

しかし、戦災にあった大江神社が
社殿復興の資金調達のために
羽呉神社のあった土地を売却・・・

売られた土地は、履物協同組合が買って
大阪履物会館を建て
南隣に羽呉神社を再建したとのこと
そうして商売繁盛を願って
履物の神さんを合祀したので
「はきもの神社」という名前もあるわけです

このはきもの神社というのは
全国でもここだけらしいですよ

小さな神社にも歴史あり、ですねぇ

2021.8 姫松なつき

参考文献:大阪あそ歩
     「呉の国から来た織女たち~住吉街道の宿場町・長町(日本橋)を行く~」
     (https://www.osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/58?1628930098428

     きもので歩こう。大阪ぞうり協同組合
     「はきもの神社について」
     (https://www.osakazouri.com/hakimonojinjya

     袴レンタルジャパン
     「呉服とも云う着物。ルーツは中国?!」
     (https://www.hakamarent.com/mamechishiki/2018/08/roots.html

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ページ上部へ戻る